my favorite things:BLOG
花、美術館、数楽、食育などの話題を中心としたブログです。
2016/3/11
2016年03月11日 (金) 22:37 | 編集


5年前の今日。
友人の佐藤淳子さんは、陸前高田で津波に流された。


海霧に とけて我が身も ただよわむ
川面をのぼり 大地をつつみ

生前詠んだ和歌が、声明歌に。


祈りの歌に。

永遠の命に。
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追悼,佐藤ご夫妻
2015年07月20日 (月) 09:14 | 編集
FBでみました。

TVでもご活躍です。




悲しみを、置き去りにしたくないから
安田菜津紀 (フォトジャーナリスト)2015年3月12日

「私がどこまで語っていいのだろうか」。
岩手県沿岸の街の中で最も南に位置している、陸前高田市。震災直後から通い続けることになったこの街には当時、夫の両親が暮らしていた。私は後から加わった家族であり、当時あの街にいなかった――つまり津波をこの目で見ていない――被災をしていない自分に、果たしてどこまで言葉を紡ぐ資格があるのだろうか。この4年間、常にそんな“後ろめたさ”を抱いてきた。
それでも大切なのは、その“後ろめたさ”から逃げないことだと、この街で、東北で教えられてきたように思う。ここから綴るのは、温かく迎えてくれた家族たちのこの4年間の軌跡を私の視点から見つめたものだ。
「どうやら東北で地震があったらしい」。
そんな情報を私と夫はそれぞれ、フィリピン、ザンビアという海の向こう側で受け取った。陸前高田は普段から揺れの多い地域だ。きっと大したことはないのだろう、と当初は思っていた。真っ黒な壁のような波が、街を次々飲み込んでいく映像を、テレビ越しに目にするまでは。
あの3月、帰国して目の当たりにした陸前高田の街は、そこにどんな営みが存在していたのか想像することさえできないほど、中心部がごっそりと流された状態だった。累々と広がる瓦礫の山を見つめながら、「生きていたら奇跡だと思おう」と低く夫が呟いた。
それでも義父は病院の4階で、首まで波に浸かりながらも、辛うじて屋上に逃れることができた。その波に飲まれるまでの写真が、なんと義父のカメラに残されていた。


県立高田病院に押し寄せてくる津波【撮影:佐藤敏通】
「恐くなかったの?」と思わず尋ねる。
「それがね、まったく恐くなかった。目の前に広がっている光景があまりにも現実離れしすぎていて、実感が湧いてこなかったんだよ」
あの日、何とか助け出すことができた患者さんや避難者の方々と、寒空の下オムツやビニール袋を体に巻き付けて過ごしたそうだ。なぜここにいる以上の、もっと多くの人たちを助けることができなかったんだろう。医師として、副医院長としての自分を責めながら。
義父が救出されてから、私たちは義母の足取りを追った。平凡な義母の名前は、この小さな街の中で、いくつもの避難者名簿に見つけることができた。その度に私たちは喜んで、避難所に向かった。しかしそれは全て、同姓同名の別の避難者だった。震災から2週間ほど経った頃、その足は避難所ではなく、遺体安置所に向かうようになっていた。そして、その遺体安置所へ通う足も、だんだん重くなっていた。「生きている」という希望は既に手離していた。
震災直後の県立高田病院。がれきに阻まれ、近づくことさえ困難だった【撮影:安田菜津紀】
義母が見つかったのは約1カ月後の4月9日、気仙川の上流を9kmも遡った、海などまったく見えない場所だった。義母は9km濁流に流され続けてもなお、家族のように大切にしていた2匹の犬の散歩紐を、しっかりと握りしめたままだった。
「例えばおにぎりが一つ足りなければ、自分は食べたつもりになって微笑む人でした」。葬儀の日、義父は義母の人柄をそう語った。彼女は生前、手話の通訳をしていた。今回の震災以前の地震でも、津波警報が出ると真っ先に、耳の不自由な方の元へ走ったそうだ。間もなく義父は、陸前高田に近づくことさえできなくなった。近づこうとすると手が震える、呼吸が苦しくなる。体が言うことを聞かないのだ。
やがてテレビや新聞の中は、「頑張れ、頑張れ」という言葉、そして「復興へ、復興へ」という勢いに溢れていった。その一つひとつが、とても尊いものだった反面、義父の心が次第に追い詰められていることが見てとれた。自分は頑張れていないからだめなんだ、復興の力になれていないのはいけないことなんだ、と。あの「頑張れ」という言葉の裏には、あまりにも大切なものを失って、声さえあげることができないたくさんの“沈黙”が存在しているのだと、義父の背中を見ながら噛みしめた。
震災から2年後。県立病院跡地に満開となった菜の花と、その花が好きだった義母と【撮影:安田菜津紀】
あれから4年。2人が暮していた県立病院の官舎の跡地は、かさ上げ工事に伴い、土の下に埋まった。どこに手を合わせに行けばいいだろう、と私自身思うことがある。
「起きてしまった災害の規模はもう変わらない。でも妻がもし生きていたら、その後の生活はまったく違っていただろうな」。
身を寄せている栃木の親戚宅で、義父がふと、呟いた。
「でもそれってずるいって自分で思うんだ。自分だけよければいいって思ってるみたいで」
そんなことはない、と声を大にして言いたい。悲しみの深さは、愛情の深さなのだから、と。
“もう4年”なのか、“まだ4年”なのか、心の歩調は様々かもしれない。突然ふと心が、あの4年前に引き戻されてしまう瞬間が、それぞれにあるかもしれない。大切なのは悲しみを抱え続けている人が、後ろめたさを感じずに生きられること。どんなに時間がかかっても、自分のペースで生きられるようになること。そのときまで待ち続けるよ、というメッセージを、言葉で、写真で、発し続けたいと思う。
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著者プロフィール
安田菜津紀
やすだ・なつき
フォトジャーナリスト
1987年神奈川県生まれ。studio AFTERMODE所属フォトジャーナリスト。16歳のとき、「国境なき子どもたち」友情のレポーターとしてカンボジアで貧困にさらされる子どもたちを取材。現在、カンボジアを中心に、東南アジア、中東、アフリカ、日本国内で貧困や災害の取材を進める。東日本大震災以降は陸前高田市を中心に、被災地を記録し続けている。2012年、「HIVと共に生まれる -ウガンダのエイズ孤児たち-」で第8回名取洋之助写真賞受賞。共著に『アジア×カメラ 「正解」のない旅へ』(第三書館)、『ファインダー越しの3.11』(原書房)。上智大学卒。
ブログ:Little Photographer
Twitter:@NatsukiYasuda

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私達の巴里祭2015
2015年07月12日 (日) 12:00 | 編集

富士宮ということもあり、いつもと、また、違った方々にも入らしていただいて、ほんとに、ありがとうごさいます。
るぽあんしゃんての門下生になって、9年になりますが、毎回感じることは、
ほんとに、暖かい人たちだな、と。
先生の人柄だと思います。いいお客様もいて、そこでプロのビアニストの伴奏で歌える幸せ、
ありがとうございます。
みなさまのお心遣いも、ありがとうございます。


安曇野、ブレノワールさんからも。

今回の、地中海にて、
ヒロシマという歌を作った、ムスタキの歌です。43年前の歌とは思えません。

いまなお、変わらぬ状況に心を痛めながら、世界中のこどもたちが安心して過ごせる社会を願い、祈りをこめて歌いました.。
大先輩のひ孫ちゃんがママの手の中で,「パリ祭」にあわせゆらゆらしていたのが印象的でした。

見たことのない地中海ですが、生まれ育った、瀬戸内海を思い浮かべて、精一杯、想像しています。

また、大切な歌が増えました。

昨年亡くなられたお仲間の堤さんの形見の衣装に、先生からお借りした、トルコブルーのジュエリーで、民族的な雰囲気に。


一夜あけ、
また、悲しいお便りが。

陸前高田で津波でなくなった淳子さんのご主人様が、7月5日に、亡くなりました。
テレビでご活躍の安田菜津紀さんのFBで分かりました。

実家のある盛岡
陸前高田
大学時代すごした広島
と、これから
法要、告別式があります。

61才、早すぎるけど、あれだけ仲良かったふたり。一男一女と、おくさまのもとに、
旅立たれたのだと思うと、複雑です。
残された二男は、立派に成長されているので、心配ないですが。

この2週間で知り合いを3人
亡くしました。

長命の両親や、るぽあんしゃんてのお仲間をみながら、かたや、若くして命を絶たれるかた、
寿命tというものを感じるようになりました。



自愛しながら、今、自分にできることは、せいいっぱいやる
あたりまえのことをあらためて感じています^^

急激な天候の変化,みなさま、気をつけてお過ごしください。







文月
2015年07月02日 (木) 08:33 | 編集


小さな小道のある家

たくさんの方々に観ていただき、ありがとうございました。

ワクワクしながら、複数で、空間を創るということは、
想像以上でした^^
1+1は、2ではなく・・・
10。

この企画に、力をそそいでくださった昌子さん、影島ご夫妻,さゆりさん、サヤカさん、
ほんとにありがとう^^

そして、おいそがしい中,毎日,心に掛けてくださったフジモク(株)の川口社長はじめ
スタッフの皆さん,お世話になりました。感謝いたします。




原点
2015年04月13日 (月) 13:27 | 編集


リマージユボタニックの原点となったのは、この方のおかげ。
zappa絵本カフェの、もとオーナー。

そのご縁がなかったら、今の私はないのです。

観てもらえて、よかった。

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